『循環と共存の森から』感想。

循環と共存の森から―狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵

循環と共存の森から―狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵

 

いよいよアフリカの狩猟採集民族の話です。

船尾修『循環と共存の森から 狩猟採集民ムブティ・ピグミーの知恵』(新評論)読了。メインタイトル見たらとっつきにくそうですけど、そんなことありません。コンゴ共和国の森に住み、みずからをムブティと呼ぶピグミーの集落で何度もフィールド・ワークしたフォト・ジャーナリストのエッセイです。写真も数多く掲載されています。

狩猟採集生活を見たかった著者が最初に出会ったのは、イタリア人神父によって労働や民主主義や宗教を「教えられている」ムブティたちでした。人間本来の生活をしていた人たちよりも西洋のほうが進んでいると考え、未開の地の人びとを教化するってどうなんかね? と著者は(私も)考えてしまいます。

さらに奥地におもむき、十数軒の集落を見つけます。移動型の狩猟採集生活をしているムブティたちでした。著者は彼らと寝起きをともにします。農耕民と交易もしていますが、農耕以前の暮らしぶりがうかがえます。

彼らは網に獣を追い込む狩猟をします。決して乱獲しませんし、同じ場所に居続けると食料が尽きるので、ときどき集落ごと移動します。木と葉っぱでつくった簡単な家で寝泊まりするのです。みんなで食事をとり、歌い、踊る人びとでした。

居候である著者にも、もちろん獲物は均等に分配されます。ワニに襲われ障碍を負った少年もみんなと同じように狩りに参加してできることをやり、平等に食事を分配されていました。彼はコンボづくりの名手でした。

平等主義。平和主義。男女共同参画。自然との共生。

近代化した自分たちの生活を著者は考え直します。(太字=引用者)

 モノを所有すれば所有するほど、それで満足することなくさらにモノが欲しくなる。その傾向は、農耕による定住化、そして結果としての(目的としての)富の蓄積・集中という「発展」の段階をたどると、当然の帰結なのかもしれない。富の蓄積が膨らんでいくほど文明は進んだといわれるが、しかし裏を返せばそれは単にその社会がものであふれかえっただけのことであって、人間の中身が進歩したことを意味するのではない。
 狩猟採集民と農耕民との間には、単なる生業のちがいを超えたとてつもなく大きな溝が横たわっているのではないかとわたしが感じるのは、つまりそのようなことなのである。ただ注意していただきたいのは、現代に生きる狩猟採集民もまた心の中では農耕民と同じような富を欲している部分があるということだ。だから、どちらがより精神性として優れているか劣っているかということをわたしは述べているわけではない。

とくに最後の部分、重要だと思われます。彼らの性格や暮らしぶりは人間の本質ではなく生活のための戦略かもしれません。でも、人間は本来数百万年もこういった生活をしてきて、定住して農耕生活を始めたのはたった1万年前のことなのです。富が生まれ、貧富の差が生じ、生態系の外に飛び出し、地球を汚しているくせに「地球にやさしく」なんて言う。

ムブティの住む森の樹がタイの業者によって伐採されるかもしれないという噂が伝わってきました。もちろんそんなことはさせたくないが、日本の安い家具だって東南アジアの森を伐採してつくられ、それは原始社会から森を奪っているのだと読み、ハッとしました。この本は、私のうちの、そういう木でつくられた書棚に並ぶのかもしれません。

政情不安のコンゴ共和国で彼らが著者と再会する冒頭とラストのシーン、感動的でした。

本書にはピグミーたちの神話、死生観、婚姻システムや性に対する考えがほとんど書かれていません。そういったことは推薦文を書いている市川光雄やコリン・ターンブルの本で補います。

進歩した世界に住んでいる気になっている私たち。ところが、狩猟採集民について読むと、天地がさかさまになったような衝撃を受けるのです。子どものころはインディアンは移民を襲撃するものだと思っていたもの、そりゃ、天地もひっくり返ります。そしてもう読むこともないと考えていた哲学や経済学の本などにも興味が派生していく。まいったね。楽しいんだけど。